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2014/01/04
身体がノーと言うとき ~ 抑圧された感情の代価 ~
ガポール・マテの「 身体がノーと言うとき」という本に、スティーヴン・ホーキングと
彼の元奥さんジェーンのことが書いてあります。
ホーキングとは、ご存じの有名な「 車椅子の宇宙物理学者 」のことです。
ホーキングは、筋萎縮性側索硬化症という全身の筋肉が衰えてゆく難病のために、自身では指一本も動かせない状態になっています。
そんな彼が、その知的な才能を開花させたのは、実は、21歳で病気を発症してから後のことだと言います。
病気のために、肉体的に衰えていったホーキングを支えたのが、前夫人のジェーンでした。
クモ膜下出血は、心身の深い疲労感と強い情動的(精神的)ストレスが発病の引き金になる急性疾患です。
孤立無援感と虚しさ、そして心身の強いストレスなしにクモ膜下出血による死はあり得ない、と思われます。
もしかすると、勝手な想像ですがなかば自殺のようなものだったのかも知れない。
では、スティーブン・ホーキングの元夫人ジェーンはどうだったのでしょう。
ガポール・マテの「 身体がノーと言うとき 」から少しだけ引用してみます。
( 翻訳 伊藤はるみ )
果たして重荷に耐えられるだろうかと、彼女が不安になったとき 、友人たちは「彼があなたを必要としているなら、やるべきよ」と言った。
ジェーンの助けがなかったら、彼(ホーキング)はまず間違いなく、(研究を)続けることはできなかった、あるいは、続けようという意志を持つことすら出来なかったろう、そうホーキングの二人の伝記作家が書いている。
ふたりは愛し合っていたが、ジェーンは次第に燃え尽きたような気持ちになっていく。
彼女は1965年、まだ婚約中だったスティーヴンのアパートへ行ったときのことを回想している。
その時、彼女は腕を骨折していた。
「彼は、私の秘書としての腕前を使って、就職のための書類をタイプさせるつもりだった。白いギブスをつけた左腕のふくらみを見て彼が、一瞬うろたえたのがわかった。その顔を見て、ほんのひと言でいいから、いたわりの言葉をかけて欲しいという私の願いは、打ち砕かれた」
このエピソードは、二人の関係をよく物語っている。
彼女は夫と共に世界中を回ったが、それは数えきれないほどの困難と出会う毎日だった。その困難は、ずっと後になって彼が名前を知られ、本が売れるようになってやっと、幾分かは避けられるようになったのである。
二人が結婚すると(ホーキングの)家族は、介護から完全に手を引いた。ジェーンは夫の世話だけでなく三人の子どもの面倒も、一人で見なければならなかった。彼女は、次第に自分が消滅していくのを感じた。自殺したいとさえ思った。
「わたしは限界だった、でも、スティーヴンは病気に少しでも譲歩するような提案に対しては絶対に拒否した。受け入れてくれれば、私や子どもたちが少しは楽になるような申し出は、いくつもあったのだが」とジェーンは書いている。
一度などは、義母はジェーンに、こんなことを言った。
「あのね、あなたを心から好きだと思ったことは一度もありませんよ。あなたはうちの家風に合わないの」
これが、自分を犠牲にして、十年間も息子に尽くしてくれた相手に言った言葉なのである。
結局、ホーキングの妻の座はひとりの看護師によって、引き継がれた。結婚生活の終わり近く、離婚するまでの間、ジェーンが最後までホーキングの世話を続けられたのは新しい恋人のおかげだった。
クモ膜下出血は、心身の深い疲労感と強い情動的(精神的)ストレスが発病の引き金になる急性疾患です。
ジェーンは、孤立無援感と虚しさ、そして心身の強いストレスをあじわったのでしょうか。
また、
ひとは、"今ここ"にいることを相手から認められ、愛情や思いやり、なにげない触れ合いというものを交換し合うことで生きていくことが出来ます。それに支えられて生きているんです。
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